2017年07月26日

映画「三度目の殺人」

 
是枝裕和監督が「そして父になる」(13)に続いて

福山雅治を主演に迎えた「三度目の殺人」にはキーマン

として役所広司が登場する。いや、キーマンという表現

は生ぬるい。本作における役所は完全に福山の相手役

である。顔見せ程度の共演ではない。がっぷり四つに組ん

だ、演技と演技の果たし合いが繰り広げられる。両者が顔

合わせるシーンのほとんどは接見室。この舞台は、それぞ

れの持ち場が閉ざされた密室。なのに、ふたりの芝居の

ダイナミズムが、透明な壁をやすやすと越えて、わたしたち

の瞳を釘づけにする。是枝裕和監督、映像的に動きの乏しい

接見室場面は少なくしようと考えていたものの、福山と役所

の本読み(脚本の読み合わせ)を見て、その面白さに脱帽。

01653bdf61bb923f.jpg

共演シーンを増やしていったという。依頼人への共感や理解

を排し、淡々と着々と減刑に向かって事を進めていく合理主義

重視の弁護士。そんな彼が、ある殺人事件をめぐって主張が

二転三転する容疑者に接見するたびに、心の結び目をほどかれ、

やがて変貌することになる。福山は「そして父になる」でも

自信家のエリートの足元が揺らいでいく様を精緻に体現してい

たが、おそらく是枝監督は福山という演じて手に、砂のお城が

壊れていくときの美を見いだしているのだろう。本作では、

弁護士のクールネスがパッションネイトな何かに脱皮する様

を至近距離から凝視することで、より大胆に、美しい崩壊の

光景をスクリーンに刻みつけている。役所広司は黒沢清監督

の映画の世界から間違って迷い込んだ異邦人のように屹立

している。正体不明、というよりは、自身のアイデンティティ

がどこにあるのか見失った記憶喪失者の趣で、私たちの視覚と

聴覚と考えゆらぎを与える。そう、この容疑者は決して悪魔の

ように弁護士を侵食していくわけではない。弱者を想起させも

する、ある種の無垢さで、一貫性ののない人間性を発露してい

くのだ。計画性は感じらえない。行き当たりばったりで、虚言

を弄してるかに思える。底なし、ではなく、むしろ底が浅く

見えることが無為なチャームにもつながっている。彼が悪人だと

断言できる人はおそらく少ない。その可能性の海に観客は溺れ

かけることになる。役所広司という俳優の、とりとめのなさに

あらためて震撼せざるをえない。では、福山はそんな役所と対峠

するとき、何を見せるのか。端的に言おう。彼は、人物の輪郭が

狂っていく様を、ここで表現している。前述した通り、弁護士は

悪魔に魅入られたわけではない。むしろ逆だ。いってみれば、

天使に誘惑され、事件の真相が知りたくなってしまう。真実を

掴み取ろうとすることほど、合理性とかけ離れた行為はない。

彼はその徒労を知っていたからこそ、淡々と着々と職務を

全うしていたのではなかったか。だが彼は彼自身のルール

から逸脱することになる。人が真剣になるということは、

実は狂っていくことなのだという側面を、福山雅治の演技

顕在化させる。とはいえ、福山は狂気をギラつかせるわけ

ではない。怒鳴ることや、血走った目を晒すことで、

デフォルメを施すわけではない。ただ、人物の輪郭を変化

させる。たとえばそれは、漫画で描かれたあるキャラクター

が長期連載の果てに、造形する線が細くなったり、太くなった

りしていた、ということに近い。漫画が長く続くと、作者の

作風も変わる。結果、連載スタート時点と最終回とでは、

画としての印象が違っていたということがあるが、福山は

これをわずか124分の中で達成してる。福山雅治はこれ見よ

がしの演技しない俳優だ。だから映画が終わる頃、私たちは

初めて気づく。あ、人物像の線が変わっていると。顔つきや

表情、台詞回しの変化に頼らず、キャラクターの線を徐々に

変貌させるべき技能によって、福山は是枝監督との二度目の

コラボレーションにおいて、さらに一段上のステージに立つ

ことになった。

キネマ旬報8月上旬号記事からの抜粋です。

C95DBaPVwAAzma0.jpg

映画「三度目の殺人」9月9日公開です。







posted by ドラ at 18:32| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: